鮫島浩工務店『エコ大工三兄弟物語』
はじめまして
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皆さん初めまして 京都で大工をしております鮫島と申します 鮫島という名字を聞くと私たちと初対面のかたは名前の印象から怖そうだとか色々と妄想を広げてしまいがちだそうです・・・ テレビでは悪役や厳つい役柄でしかつかわれない名前だからでしょうか? (鮫島って名前は鹿児島県ではメジャーな名前なんです中には良い名前ですねって言って下さる方も多いんですよ^^¥) 中には映画で新宿鮫って言う物も有りましたっけ?真田拡之さんの映画でしたね。 世間的にイメージが良くないのかも知れないですが、本当の僕たちを知ってもらいたいと思います。 |
三兄弟の性格を簡単に説明すると曲がったことが嫌で筋の通らないことは嫌な性格です。 父が鹿児島の垂水という桜島のふもとにほど近い生まれで鹿児島で鮫島と姓名をたどると元は薩摩の侍だったとか・・・そして先祖は一つしかない???と言う話を聞いたことがあります。 |
そんな両親によって三兄弟は育てられたのですがやはり長男の私は子供の頃口癖のように言われた言葉が、これです・・・ |
エコ大工三兄弟のはじまり
三男は私と4才違うので喧嘩の対照ににもならず遊び相手にも頼り無いので子供の頃に一緒に遊んだ記憶があまり無いですが、しいて言えば何時も僕たちの後ろを必死で付いて廻っていて、同じように付いて来ていました。 今思えば男三人兄弟わんぱくでしたね、よく育てて頂きました |
大工入門
鮫島浩明。 昭和61年大工入門 日当3000円で遊ぶことさえ許されない 仕事漬けの5年間の修行を全うし年期明け。 修行の期間内に、一年半遅れて昭和63年。 次男博次も入門 大工道を磨き一人前になる為に 激しい競争が始まる。 その二年半後、平成二年。 |
鮫島浩工務店のルーツ
私は年期明け後、平成3年。 同じ大工であり 違う工務店に勤める実の父親(55才)の元へ 親子船のように連れ添う。 |
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その後、 次々と弟達が合流する しかし世の流れには逆らえず、 バブル絶頂時期も終わりを告げ どんどん不景気になる中、 あらゆる業種の会社が倒産して行き 挙げ句の果てには銀行までもが破綻してしまう・・ このころ、毎日の出来事やニュースを見ていた私は危機感を覚える。 同じ工務店に親子四人が勤めているこの状態に不安を覚え 工務店を飛び出し世に出る。 平成6年、人脈を広げる為に 毎日知らぬ大工の応援で 食いつなぐこの期間、 約二年間は辛い毎日でした 朝現場に行くと 年が若いせいもあり 仕事が出来ないと決めつけ偉そうな言い方をされ 各現場で出会う熟練大工さんに気を使い・・・ まだ26才の社交的になれなかったあの頃は、 自分の内側に全て抱え込み 家に帰っても 赤ん坊を抱く妻にも話せないまま いつも胃薬を持ち歩いていました。 不景気と、知らぬ工務店の応援ばかりでは仕事の無い時の方が多く 長女がまだ乳飲み子で自宅購入していた自分は ローンとままならない生活費に 生きる怖さを知った時でもありました。 事実上、父親は年を取りすぎていたし 兄弟の中では私が長兄だったこともあり 兄の責任でこの工務店を飛び出したこの瞬間に 鮫島浩工務店のルーツが始まったのかも知れないです。 |
本当に良い家造りを目指して
飛び出した二年後 |
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その後、同じく平和堂様の経営する CDのTSUTAYAさんのメンテナンス業務にも携わり今に至る。
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現在 個人お客様多数、平和堂様(TSUTAYAメンテナンス業務)建築会社数社にお世話になりながら兄弟三人で力を合わせて頑張っております。 年老いた父親は数年前に引退をして母親と共にスローライフを楽しんでいます。 私たち兄弟三人は、今まで培ってきた技術を活かし、 お客様のためになる本当に良い家作りを目指しています。 特に地球環境の貢献のための積極的な古材の利用の推進、 子供達の未来の健康を考えた無垢材、漆喰をはじめとした土壁などの自然素材の活用をしています。 (お客様大満足の京都西陣のT邸) 大工出身であることゆえの不器用さや無骨さはございますが 職人ならではの、真直ぐな心と技術での幸福になる家造りをお届けしています。 兄弟三人で本当に良い家造りを目指して今後も沢山のお客様に 大工道の技術と心を提供していきたいです。 |
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京都府伏見区でリフォームをお考えの方は、鮫島浩工務店へお気軽にご相談ください。